最近聞いている音楽

いろいろ聞きはするものの、音源を買わない場合も結構あって、
いざという時に、「あれ誰の何という曲だったかしら」と思うことも増えた気がします。
特に洋楽は忘れがちだなと思うので、最近気になった OR 探した OR よく聞いている曲をメモ代わりに挙げてみる。
オフィシャルがあるやつはリンクもつけて。
 

邦楽

  • 星野 源 - SUN
  • 高橋ちか - wonderful world
  • cero - Contemporary Tokyo Cruise

洋楽

  ※これはオフィシャルではなさそう。

  • CARL DAWKINS - SATISFACTION
  • Derek & The Dominos - Layla
  • G-Swing - Sing Sing Sing
  • Bill Withers - Lovely Day

 
適宜更新するかも。

聞き耳を......。

「ひょっとして、アバンティをお探しですか? ……東京は元麻布、仙台坂を上がったこのあたりは古くからの屋敷町。そしてこの路地を曲がった先のほらあそこ、あそこがお探しのイタリアンレストラン「AVANTI」。何とも目立たない入り口ですが、土曜日夕方のこの店のウェイティングバーは常連客が集まって賑やかになるんです。さあ、着きました。私が、扉をお開けしましょう」
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TOKYOFMで1992年から21年も続いてきた、土曜5時からのラジオドラマ「Suntory Saturday Waiting Bar "AVANTI"」。元麻布のバー、AVANTIを舞台に、道案内をしてくれた「教授」と一緒に常連客のお話に聞き耳を立てるという番組です。その最終回のパブリック・リスニングを聞きに、東京ミッドタウンに行ってきました。


小学生くらいの頃、土曜日に家族とどこかへ出かけた帰り道、カーラジオから流れてくる番組の一つがこれでした。中高生になるにつれ、聞く機会は減ったり増えたりしたものの、10年以上の長きに渡り、土曜の5時に気が向くとラジオのスイッチを付けました。一時期、録音をしてみていたこともあり、親からは「録音するほどの番組か?」と言われたりもしましたが、私にとっては大人の世界を知る一つの窓のようなものだったのだと思います。
ちなみに、最終回を迎えるに当たって一つお気に入りの話を挙げるとすれば、出石尚三さん(服飾評論家)の『帽子のススメ』の話。「お前が好きだから、お前も俺を好きになってくれよ」というのが、当時の私には新鮮な驚きだったのを思い出します。
バーという場所で、しかもサントリーが提供なので、お酒にまつわる話も多くありました。少なくないリスナーがそうなのだそうですが、バーという場での"大人のお作法"、そしてお酒との付き合い方に憧れを抱きました。2007年に出たカクテルブックに、ようやくお酒と出会い始めたその頃の私は、大きな影響を受けました。大学生のやんややんやとやる飲み会に参加しつつ、もっと美味しくお酒を飲めないものかと思いながら「バーの十戒」を呟いたりしていました。*1

AVANTI COCKTAIL BOOK〈2〉―TOKYO MOTO‐AZABU

AVANTI COCKTAIL BOOK〈2〉―TOKYO MOTO‐AZABU


話と話の間に流れるジャズのメロディも好きでした。いわゆる「若者」のラジオ番組にも、日中のウィークプログラムでも聞けない曲が多かったように思います。*2 似たような曲をなんとか聞きたくて、でもジャズの中でもどういうジャンルとして調べれば良いのかわからず、図書館でジャズと名のつくCDを借りてきては、なんだかちょっと違うんだよな、と思っていました。後に麻布十番祭りで手に入れたAVANTIのCDは、今も作業用BGMの定番です。
スタン・セレクション from アヴァンティ PRESENTED BY TOKYO-FM「SUNTORY SATURDAY WAITING BAR AVANTI」

スタン・セレクション from アヴァンティ PRESENTED BY TOKYO-FM「SUNTORY SATURDAY WAITING BAR AVANTI」


スタン・セレクションズ・フロム・アヴァンティ”ヴェルデ”

スタン・セレクションズ・フロム・アヴァンティ”ヴェルデ”


どういう巡り合わせか、番組の終わりと重なるようにして、4月から働き始めることになりました。
私が今まで学んできた教育の歴史は、子供が若者になり、若者が大人になっていく、そこでの人間形成のあり方の歴史です。それは、例えば一つの見方として、「自分が大人になること」と「誰かを大人にすること」との間のせめぎ合いの中で産まれてくる関係性として見ることができます。「大人になる」ということが、どういうことなのか。それも様々な見方があると思うのですが、何を「大人」として見るのかについてのせめぎ合いもまた、その関係性の一端でしょう。*3 
私にとって「大人になる」ということの一端は、AVANTIの大人たちの会話に近づくことだったように思います。あのバーカウンターの片隅にいることができるか。常連客たちと、どんな話ができるだろうか。あるいは、どれだけ上手に、面白さを引き出しながら常連客の話をきくことができるのか、......etc.
そんなことを考えながら、また一つドアを開けにいきます。

*1:ただフォローするとすれば、学生の飲み方はそれはそれで一つの文化なのだと思います。ただその文化も、ここ数年の状況変化で大きく変わりつつあります。

*2:最近では同じTOKYOFMの「シンクロのシティ」が近い選曲をすることがありましたが、こちらも4月から時間帯が少し変わるそうです。

*3:社会教育や生涯学習と呼ばれるものがどう位置付くのかについてはここでは一端置いておきます。

図書館の自由と規制をめぐる何か

こちらのブログはゆるゆると更新していこうと思っております。
ゆるゆると思っていたら、5か月経っていたようでした。
 
Twitterを始めて2年半ぐらいなのですが、当初からフォローしているコミュニティの一つが図書館関係*1の方々です。
さて、そういう関係で、こういう文章を読みました。一言だけ図書館関係じゃない人にご紹介すれば、有川浩図書館戦争シリーズでもおなじみの「図書館の自由に関する宣言」の現代的問題を問おうとするお話です。
 
笠間書院 kasamashoin ONLINE:エッセイ●岡部晋典「錆びはじめてきた、図書館の伝家の宝刀を研ぐことは可能か」【リポート笠間53号・掲載】
 
この話の背景には、武雄市立図書館の民間委託に関する一騒動だとか、この宣言をめぐる今までの図書館関係者間での取り扱われ方の歴史なんかを理解している必要があるとは思うのですが、現状説明できるだけの知識も自信も無いので割愛します。正直に言えば、この論争に関しての一つ一つの声明文には読んでいないものも結構あり、全体を補足できるほど追えている自信もありません。
 
ただ一連の論争への立場はともかく、「図書館の自由」というときのそれは何なのだろう、という疑問を持ちました。
「貸出履歴の秘密保持」と「自由」の関係とは何か、しかもそれにわざわざ「図書館の」という言葉をつけてまで限定した自由とは、誰の何の自由を指すのでしょうか*2
 
ひとまず「自由」と言えば憲法学を見てみるかと思い、手元に昔授業で買ったこれ*3があったので、ひとまずその頁をめくってみました。

憲法 第四版

憲法 第四版


一応言っておくと、法学について専門的にやっているわけではないです。その辺り分野違い(どちらかと言えば教育とか歴史)の一修士課程生の理解としてお読みいただければ幸いです。
 
さて、「貸出履歴の秘密保持」に近そうな「通信の秘密」や「プライバシー権」辺りを探してみます。
第九章四節の4にある「通信の秘密」には、こうあります。

 憲法二一条二項後段が通信の秘密を保障しているのは、通信(はがき・手紙、電信・電話等すべての方法による通信)が他者に対する意思の伝達という一連の表現行為であることに基づくが、さらに、公権力による通信内容の探索の可能性を断ち切ることが政治的表現の自由の確保に連なるという考え方も、そこにひそんでいると解される。
 しかし諸外国の憲法では、表現の自由とは別個独立の条文で保障されるのが例である。(中略)それは、通信の秘密が特定人の間のコミュニケイションの内容を他に知られないようにする、という私生活の自由を保障することを主たる目的とするものだと考えられてきたからであろう。その意味で、憲法十三条に基づくプライバシーの権利および三五条の定める住居の不可侵の原則(略)とその趣旨を同じくする、と言うことができる。
(PP.207-208)

ひとまず、「貸出履歴の秘密」を同様に解せば「政治的表現の自由の確保」として、あるいは「私生活の自由」の保障として解せるのだろうと思います。
もっとも通信の秘密にも制限はあって、刑事訴訟法や関税法、監獄法なんかで例外規定があるそうです*4。本書では触れていませんが「図書館の自由に関する宣言」でも、「図書館は、利用者の読書事実を外部に漏らさない。ただし、憲法第35条にもとづく令状を確認した場合は例外とする」というような記述があります。
憲法解釈に関して言えば、これらの制限が「憲法上許される必要最小限度のもの」である必要があり、厳格な要件を設けて例外的に認めるという見解がこの本の中では指摘されています。また、別の章のプライバシー権の項目を見ても、「一般的にプライバシーと考えられるもの」や「プライバシーに該当するか判然としないもの」に関しては、「原則として『厳格な合理性』の基準(立法目的が重要なものであり、規制手段が目的と実質的な関連性を有することを要求する基準)を用いるのが妥当ではないか、と解される」(P.121)という記述*5があります。
 
ただ、最初のリンク先の文章では「また、プライバシーの概念そのものが「一人にしてもらう権利」から「自己情報コントロール権」へ、そして「自己情報コントロール権」の過大な解釈から、近年では揺り戻しが起こりつつあるということ」という記載があるのですが、この本では「自己情報コントロール権」に移ってきたという話までしか書いていませんでしたので、上で書いた学説の状況からは更に展開があるのかもしれない、ということは推測できます。
正確なところは別の資料に当たる必要があるとは思いますが、身の回りレベルの話になれば、確かに行政だったり組織の持っている情報へのアクセスが難しくなるのは一概に良い話ではないとも思います。例えば世論調査なども、母集団を決定するのに自治体の持つ選挙人名簿や住民基本台帳などを使用することがありますが、これらの利用は近年難しくなっていると言われます。また、調査には往々にして高額の費用がかかることなどの理由から、得られた調査データの2次利用として、プライバシーの問題に配慮しつつも個別の調査票のデータを公開していくという方向性も模索されています。最近流行の「ビッグデータ」の問題はそれはそれでいろいろとあるのはわかるのですが、こういった大規模なデータの利用が、我々の社会がいまどのような状況にあるのかについて知るための資料となっていくこともまた事実です。これらの情報が「見えなく」なれば、我々は現実におきていることの意味を認識することすらできません。
思うのは、自分についての情報を提供しないのは、めぐりめぐって「自分のことに対しては『いないもの』と思って下さい」ということになるのかもしれない、ということです。「絆」という言葉が流行語になるほどそれに乏しい社会、孤独死や自己責任が日常的に語られる社会において、「一人にしてもらう権利」「ほっておいてもらう権利」の行使ということの意味は、本当に輝かしいものとして映るのでしょうか。*6
 
最後にちょっとだけ違った視点から話をすると、最近副ゼミでいくつかの本を講読している中の一冊に、こういう文章がありました。

日本の教育と企業社会―一元的能力主義と現代の教育=社会構造

日本の教育と企業社会―一元的能力主義と現代の教育=社会構造

 従来、国民的な教育運動においては、「規制問題」とは、即国家主義的規制をめぐる問題であり、規制に対する自由こそが運動の課題であった。しかし、こんにち、政策側が規制緩和を盾に教育の自由と権利を犯そうとしているときに、その自由と権利を守るため、国民的立場から公共的規制のありかたを探求することは、教育運動の重要な課題になっているといえるのではあるまいか。
(P.260)

1990年の著作で、学校と労働市場に関する話ですので、具体的に図書館について語っている訳でもないし、当時の時代性もある程度織り込んで読んでいただければと思うのですが、ひとまず「規制に対する自由」という考え方ではもはや通用せず「自由と権利を守るため、国民的立場から公共的規制」の可能性を探るという話は、それなりに示唆的なのかもしれません。
図書館の自由に関する宣言」の1954年制定、74年改訂という年号を改めて見て、そんなことを思ったりしました。
 
以上、何が言いたいのかわからない文章ですが、ひとまず。

*1:私はあんまり周りの人々の専攻科目が図書館(学)とは関係のない大学なり学部なりにおりましたので「なぜ図書館?」なんて言われるのですが、その話になると少なくとも中学の総合的な学習の時間の話から始まるので、またの機会に。

*2:図書館学の初歩の初歩だとは思うのですが、浅学にしてよくわかっておりません

*3:なお、現状は第五版が最新版として出ているようです。憲法学の中でのこの本の立ち位置についてはあまり知りません。

*4:ちなみにこの版は1999年の通信傍受法に関してはあまり深く立ち入っていません

*5:ちなみに「だれが見てもプライバシーであると思われるもの」に関してはその前段部分で「人の人格的生存にかかわるので、最も厳格な審査基準」が必要だと言っています

*6:そういえば全然話が変わりますが、昔「mixi八分」って言葉がありましたけど、今「facebook八分」みたいな話ってあるんでしょうかね

「働くことは人の本分だから」

この間、とあるゼミで読んだ資料の中に、こんな記述がありました。


ちょっと説明すると、これは戦前の昭和15年に行われた「壮丁思想調査」というものを戦後の1970年代に評しているものです。この調査は「壮丁検査」、つまりは成人男性が軍隊に入れるかどうかをチェックする時の検査の時に行われたものなのです。当時二十歳ですから、今の大学生ぐらいだと考えるといいかと思います。

(質問の)問題は、「我等が暮して行くためには、どんな心がけが最も大切だと思ひますか。次の答えの中から諸君の考へに一番近いもの一つだけに○をつけなさい」という類のものです。これにたいして壮丁たちの答えが、多く集中している選択肢がありますが、注目すべきは壮丁の学歴によって、その答えの傾向が異なっているという点です。他の者に比して大学卒の者が比較的多く答えているのは、「公のことを先行し、自分のことは後まはしにして考えること」という選択肢です。これにたいして小学校乃至は高等小学校卒の者は、「一生懸命に働き倹約して金持になること」に○をつけている傾向がみられます。ついでに師範学校卒の答えの傾向は、「自分一身の事を考えず、公のためにすべてを捧げて暮すこと」にあります。
 もう一つ例をあげてみます。「我等が自分の仕事を一生懸命にやるのは何のためでせうか」にたして、大卒は、「働くことは人の本分だから」を、小卒は、「立身出世するため」または「親達を喜ばせるため」を、そして師範卒は、「お国のためになるから」をそれぞれ選んでいる傾向がみられます。


(出典:大槻健(1973)「国民の教育要求と民間教育運動」『教育』国土社 http://ci.nii.ac.jp/naid/40000673937


筆者はここでの大卒と小学校卒との対比から、文化の二重構造の話に続けていくのですが、それはともかく私は小学校卒の潔さを面白く思いました。
なんとなく、「百姓から天下人に」と謳われる太閤秀吉のような、そういう立身出世感が生きてたのかなと思わせる内容な気がします。あるいは「正直でよろしい」というべきか。


振り返って、大卒です。「働くことは人の本分だから」というのは、どう解せばいいんでしょうか。
人の、ホンブン?
私はただ「働くのが当たり前だから」というのとも、少し違うような気もしつつ、この言葉を受け止めています。当時の大卒という人々には「働くことを善とする人間観」(例えば「晴耕雨読」みたいな生活)が強かったのかなとも思いつつ、時期的に国家総動員態勢の中に組み込まれていく人々だったのかもとか、いろいろな可能性を見つつ。


* * *


話が変わって戦後、日本国憲法では「勤労の義務」が27条で規定されますが、これって何なのでしょうか(Ciniiでざっと調べてもあまり詳しい論考が見当たらない気がするのは調べ方が下手だからでしょうか)。中学校で「日本国憲法の三大義務」と習って覚えた記憶はありつつも、国民の義務の中身まで問われるのは「教育を受けさせる義務」(26条)ぐらいなので、お題目はわかってるけど、実際どういう意味を持つのかがわからないということです。


誤解の無いように言っておけば、「私が」働くことの意味がわからないということを言いたいのではありません。アルバイトレベルと言われるかもしれませんが、今までもそれなりに責任感を持って仕事には取り組んできたつもりです。また、人それぞれに「働くこと」に対するいろいろな思いがあるんだろうとも思います。
そのパターンもいろいろあるでしょう。例えば「働かざるもの食うべからず」といったような、お金を得るためという意義。それこそ昨今の就職活動で連呼される「社会貢献がしたい」というもの。あるいはその仕事が好きだからという理由(好きな事を職業にできている人を見ると素敵だなと思います)。


ただ、憲法という、国民が国家を規制するものとして定められたものの中に、ただ3つだけ入れられている「義務」として扱われる「勤労」って、どういうものなのだろうという疑問があるんです。
何かこの「人間の本分だから」と同じような落着きの悪さを感じてしまう、と言って伝わるでしょうか。


* * *


働く、とは何か。
なんとなく、今の世の中での「勤労」の位置ってひとところに落ち着かない気持ち悪さがあるような気がします。
「人間の本分だから」では落ち着かない。けれども「立身出世のため」でも「お国のために」でも何か違う気がする。「お金のため」と言うには養う家族ができる見込みは不安定で、「社会貢献」と言えばきれいごとだけじゃ世の中動かないと言われる。
働かなければ生きていかない。でも働くことの意味がわからなくなっているからこそ、働いていない人々、働けない人々に対する避難や、独特の視座が気になるのかな、とも思う訳です。昨今の生活保護話だったり、「嫌儲」なんかを目にしたときに。あるいは「シューカツ」をめぐる悲喜こもごもを見る度に。

開設にあたって

こんにちは、walker_hotateです。

東京の某大学院にて院生をやっております。

 

はてなブログ使ってみたかったので作るだけ作ってみました。

基本的にはTwitterなどで長文を書きたくなった場合の参照先として利用していくことを想定しています。

更新頻度はひとまず少なめになると思いますが、どうぞよろしゅうに。