「働くことは人の本分だから」

この間、とあるゼミで読んだ資料の中に、こんな記述がありました。


ちょっと説明すると、これは戦前の昭和15年に行われた「壮丁思想調査」というものを戦後の1970年代に評しているものです。この調査は「壮丁検査」、つまりは成人男性が軍隊に入れるかどうかをチェックする時の検査の時に行われたものなのです。当時二十歳ですから、今の大学生ぐらいだと考えるといいかと思います。

(質問の)問題は、「我等が暮して行くためには、どんな心がけが最も大切だと思ひますか。次の答えの中から諸君の考へに一番近いもの一つだけに○をつけなさい」という類のものです。これにたいして壮丁たちの答えが、多く集中している選択肢がありますが、注目すべきは壮丁の学歴によって、その答えの傾向が異なっているという点です。他の者に比して大学卒の者が比較的多く答えているのは、「公のことを先行し、自分のことは後まはしにして考えること」という選択肢です。これにたいして小学校乃至は高等小学校卒の者は、「一生懸命に働き倹約して金持になること」に○をつけている傾向がみられます。ついでに師範学校卒の答えの傾向は、「自分一身の事を考えず、公のためにすべてを捧げて暮すこと」にあります。
 もう一つ例をあげてみます。「我等が自分の仕事を一生懸命にやるのは何のためでせうか」にたして、大卒は、「働くことは人の本分だから」を、小卒は、「立身出世するため」または「親達を喜ばせるため」を、そして師範卒は、「お国のためになるから」をそれぞれ選んでいる傾向がみられます。


(出典:大槻健(1973)「国民の教育要求と民間教育運動」『教育』国土社 http://ci.nii.ac.jp/naid/40000673937


筆者はここでの大卒と小学校卒との対比から、文化の二重構造の話に続けていくのですが、それはともかく私は小学校卒の潔さを面白く思いました。
なんとなく、「百姓から天下人に」と謳われる太閤秀吉のような、そういう立身出世感が生きてたのかなと思わせる内容な気がします。あるいは「正直でよろしい」というべきか。


振り返って、大卒です。「働くことは人の本分だから」というのは、どう解せばいいんでしょうか。
人の、ホンブン?
私はただ「働くのが当たり前だから」というのとも、少し違うような気もしつつ、この言葉を受け止めています。当時の大卒という人々には「働くことを善とする人間観」(例えば「晴耕雨読」みたいな生活)が強かったのかなとも思いつつ、時期的に国家総動員態勢の中に組み込まれていく人々だったのかもとか、いろいろな可能性を見つつ。


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話が変わって戦後、日本国憲法では「勤労の義務」が27条で規定されますが、これって何なのでしょうか(Ciniiでざっと調べてもあまり詳しい論考が見当たらない気がするのは調べ方が下手だからでしょうか)。中学校で「日本国憲法の三大義務」と習って覚えた記憶はありつつも、国民の義務の中身まで問われるのは「教育を受けさせる義務」(26条)ぐらいなので、お題目はわかってるけど、実際どういう意味を持つのかがわからないということです。


誤解の無いように言っておけば、「私が」働くことの意味がわからないということを言いたいのではありません。アルバイトレベルと言われるかもしれませんが、今までもそれなりに責任感を持って仕事には取り組んできたつもりです。また、人それぞれに「働くこと」に対するいろいろな思いがあるんだろうとも思います。
そのパターンもいろいろあるでしょう。例えば「働かざるもの食うべからず」といったような、お金を得るためという意義。それこそ昨今の就職活動で連呼される「社会貢献がしたい」というもの。あるいはその仕事が好きだからという理由(好きな事を職業にできている人を見ると素敵だなと思います)。


ただ、憲法という、国民が国家を規制するものとして定められたものの中に、ただ3つだけ入れられている「義務」として扱われる「勤労」って、どういうものなのだろうという疑問があるんです。
何かこの「人間の本分だから」と同じような落着きの悪さを感じてしまう、と言って伝わるでしょうか。


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働く、とは何か。
なんとなく、今の世の中での「勤労」の位置ってひとところに落ち着かない気持ち悪さがあるような気がします。
「人間の本分だから」では落ち着かない。けれども「立身出世のため」でも「お国のために」でも何か違う気がする。「お金のため」と言うには養う家族ができる見込みは不安定で、「社会貢献」と言えばきれいごとだけじゃ世の中動かないと言われる。
働かなければ生きていかない。でも働くことの意味がわからなくなっているからこそ、働いていない人々、働けない人々に対する避難や、独特の視座が気になるのかな、とも思う訳です。昨今の生活保護話だったり、「嫌儲」なんかを目にしたときに。あるいは「シューカツ」をめぐる悲喜こもごもを見る度に。