スター・ウォーズ断想

スター・ウォーズと私

スター・ウォーズについて語ることは、それぞれの青少年期を語ることになるので、少し気恥ずかしい。
最初にスター・ウォーズを見たのはいつだか思い出せないのだけれど、多分、エピソード1の頃にBS2か日テレの金曜ロードショーか何かでやっていた4-6の特別編なのではないかと思う。何にはまったのかと言えば、登場するキャラクターや惑星やメカの設定の奥深さだったり、ジェダイとシスの設定だった。少しして、ディアゴスティーニの「週刊スターウォーズ」が出たころ、塾の帰りに寄り道した本屋で、時々パラパラと立ち読みして帰った(創刊号だけ買った)。エピソード3公開時は、受験生にもかかわらずラジオで当たった試写会に友人と行き、6つのエピソードが完結したことを感慨深く思っていた。
マーベル系のアメコミ映画にも、スタートレックシリーズにも、ガンダムにもエヴァンゲリオンにも興味を持たなかったし、だからと言って黒澤映画とか、スター・ウォーズのルーツとなった映画に造詣が深い訳でもない。ただ、時々気が向いたときにファンダム(Wookieepedia)を覗いたりする程度の、ライトなファンでしかない。クワイ=ガンが探究した生けるフォースのことを考えたりはするけれど、様々な外伝(レジェンズ)を読むわけでもなく、アニメシリーズも通して観てはいない。そうした中途半端なファンによる、まとまらない断想である。

シークエルの位置と手法

ジョージ・ルーカスが示した9部作構想のために、シークエル3部作は特殊な立ち位置になった。シリーズの設定的には「ローグ・ワン」や「ハン・ソロ」であっても、あるいは数々のテレビシリーズであっても、カノン(正典)の一部の扱いで変わらない。しかし、9つの「エピソード」の一部を形成するということは、シリーズのコアな位置にあると認識されることを宿命づけられることである。そして、シークエルはジョージ・ルーカスの手を離れて作られることで、「新世代によるスター・ウォーズの継承」と「(幻の)9部作の完結」を要請されることになった。また、プリクエル3部作が「エピソード4」への接続を要請されたのに対して、シークエルのゴールは開放されている。過去の3部作ではゴールへの過程が重要視されるのに対して、今回の3部作では過程と共に結論が期待される。ディズニーは、様々な制約が多い一方で、いかに新しいものを見せてくれるかという期待も大きな作品を、統一的なプロットを作らず、複数の監督による連作形式で、短いサイクルで展開していく手法を取った。
それが成功したのかどうかについては、様々な観点からの評価が必要だと思うが、個人的には、カリスマによる支配を脱した物語を統治するために、新たなカリスマを立てるのではなく、複数の声を共振させていくことの可能性と限界を感じた。J・J・エイブラムスが3部作全てを監督していたら、あるいはキャスリーン・ケネディをはじめとする上層部がもう少し違ったアプローチを試していたら、という「もしも」の可能性を感じるないこともない。同様の結論に落ち着くとしても、いくつかの要素を前作で盛り込めていれば、本作でより集中すべきテーマに割ける時間が作り出せたとは思う。しかし、ライアン・ジョンソンが前作で羅生門的アプローチを取らなければ、未だに本編において(フォース・ヴィジョンではない)回想シーンは作られなかったのだろうし、設定的にも技法的にも、この方法だから打ち破れた慣例というのはあるのだろう。

パルパティーンとスカイウォーカー

パルパティーン(以下「ダース・シディアス」のことを言う)の復活については、物語の着地点としては理解できる*1。「最後のジェダイ」において、「強い光には深い闇がある」としたオク=トーでのルークの発言を踏まえれば、「スカイウォーカーの物語」に対応する深い闇としてのパルパティーンという落としどころはしょうがないのかなと思う。パルパティーンは何を目指していたのかを考えるのならば、ジェダイの殲滅と、シスによる銀河の支配なのだろうけれど、プリクエルにおけるあの周到な暗黒卿の姿を思えば、最初からレイとベンの生体エネルギーを吸収して自身が復活するシナリオぐらい描いていそうである。レイに自身を殺させることで云々といった下りは、まぁそういうこともあるのかもしれないが、彼一流の煽りなのではないかと思った。そう考えれば、彼にとっては、ベンによるハン・ソロ殺しやスノーク殺しは、プリクエルにおいてアナキンに対してドゥークー伯爵殺しの試練を与えたようなものなのかもしれない。
スカイウォーカーとパルパティーンの対比は、強力な血統の連なりということになってしまって、「NARUTO」における大筒木アシュラと大筒木インドラのような構図になってしまったような感も受けた。そうすると、ナルトとサスケによって倒されるカグヤのような構図だろうか。あまりよく当てはまらないかもしれないけれど。ただ、スカイウォーカーとパルパティーンという2氏族を超えて「強いフォース(感応力)」であることが、結局血脈の問題として処理されたとする評価は、フィンの下りや、アニメシリーズでジェダイ・シス以外のフォース感応者を様々に登場させていることを考えれば、早合点なのではという気もする。今はレジェンズとなったユージャン・ヴォングがいつ(スローン大提督と同様に)銀河系外から出現してくるかわからないので、シリーズ全体としてバランスがとれていれば良いのではないだろうか。この辺り、ハリー・ポッターシリーズ的な、血統主義を優先する敵役に対して当人の資質を優先する主人公側という感覚もあるのかもしれない。

血族と家族

政治家の祖父が政治家であることが問題として議論されている国にいると、「祖父が誰であるか」は製作者の意図以上に注目されるのかもしれないけれど、レイの出自については、前作における「誰でもないこと」の方が、重要なのではないかと思っている*2。この辺は後にノベライズ等で追加情報が出てくるような気もするけれど、終盤でのパルパティーンとの掛け合いで、レイの両親についての話になった時にも、パルパティーンが「誰でもない」=「特別な才能の無い」というネガティブな評価を示していたのに対して、レイは「誰でもない」ことをむしろ誇るべきこととして述べていたように見えた*3
レイアが「レイア・ソロ」あるいは「レイア・オーガナ」(彼女は一貫してスカイウォーカーの姓を名乗っていないはず)であることを考えるならば、レイがパルパティーンの名を名乗らないことそれ自体はあまり問題ではないのではないかとも思う。しかし、レイはファミリーネームを求められるし*4、ジャナもランドにルーツを探しに行こうという言葉をかけられる。「選ばれし者」としてアイデンティティが外部から与えられた上で、それに対する様々な感情を描いたプリクエルに対して、シークエルにおける登場人物のアイデンティティはみな(ルークでさえも)揺らいでいて、しかしその上で、自分の寄って立つところを自ら見出していく過程こそが焦点化された。
スター・ウォーズは「家族の物語」だと言われる。オリジナル3部作が「家族の和解」、プリクエルが「家族と愛」を描いたのだとすれば、シークエルの課題は「プロジェクトとしての家族の形成」であったような気がしている。端的には、終盤でパルパティーンが「新しい家族」という言葉を使うシーンが象徴的で、文脈的に、その「家族」は血縁者ではないし、恋人でもない。もちろん、ここでの"Family" には仲間(=レジスタンス)という意味も表しうるので、訳語の問題とも言えるかもしれない。しかし、多様な家族の在り方が社会的課題となった現代社会を踏まえるなら、家族の在り方自体がかつての(オリジナル3部作の時代の)それではないことは考慮に入れるべきであろう。現代における家族の困難は、家族が家族であることによる困難にとどまらず、個人が家族となること自体の困難さなのである。本作でその課題に十分な答えは出せていないとは思うし、現実の社会もまたその課題を乗り越えられてはいないけれど、そこに何らかのポジティブな光を当てようとしたのかなとは感じた。

結びに代えて

個人的にはクワイ=ガンが再登場してくれて嬉しいし*5ジェダイはフォースを知識と防御のために使うのだという教えに忠実であり、ヨーダやルークがかつての自分について反省していることもわかり、自分が何者であるかは自分で決めることができるのだというメッセージには好感を持った。様々に、満足な点も不満足な点もあるけれど、ひとまずは、「あぁ、2010年代のスター・ウォーズが終わったんだな」と思った*6

*1:ダース・モールの件もあるし、そこまで驚く話でもない。

*2:パルパティーンの孫がベイダーの孫と同世代であるという点は気になっていて、どちらも種族が人間である(世代再生産のサイクルが同じと仮定される)ことを考えると、曾孫の方が適切な気もする。ただ、恒星系が違ったりするとそういうこともある、とか言い訳はいろいろ考えられそうである。

*3:先のハリポタ的感覚からすれば、両親の「加護」ともとれるのかもしれない。

*4:ファミリーネームへのこだわりを何度も見せられて、文化的にファミリーネームを持たないミャンマーのことを考えたりもした。

*5:しかし時代的に霊体化できなかったはずのジェダイが登場するのは何なのだろうかとは思った。

*6:「マンダロリアン」が2010年代のスター・ウォーズ史的にどういう位置づけの作品になるのかは、また別として。