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図書館の自由と規制をめぐる何か

こちらのブログはゆるゆると更新していこうと思っております。
ゆるゆると思っていたら、5か月経っていたようでした。
 
Twitterを始めて2年半ぐらいなのですが、当初からフォローしているコミュニティの一つが図書館関係*1の方々です。
さて、そういう関係で、こういう文章を読みました。一言だけ図書館関係じゃない人にご紹介すれば、有川浩図書館戦争シリーズでもおなじみの「図書館の自由に関する宣言」の現代的問題を問おうとするお話です。
 
笠間書院 kasamashoin ONLINE:エッセイ●岡部晋典「錆びはじめてきた、図書館の伝家の宝刀を研ぐことは可能か」【リポート笠間53号・掲載】
 
この話の背景には、武雄市立図書館の民間委託に関する一騒動だとか、この宣言をめぐる今までの図書館関係者間での取り扱われ方の歴史なんかを理解している必要があるとは思うのですが、現状説明できるだけの知識も自信も無いので割愛します。正直に言えば、この論争に関しての一つ一つの声明文には読んでいないものも結構あり、全体を補足できるほど追えている自信もありません。
 
ただ一連の論争への立場はともかく、「図書館の自由」というときのそれは何なのだろう、という疑問を持ちました。
「貸出履歴の秘密保持」と「自由」の関係とは何か、しかもそれにわざわざ「図書館の」という言葉をつけてまで限定した自由とは、誰の何の自由を指すのでしょうか*2
 
ひとまず「自由」と言えば憲法学を見てみるかと思い、手元に昔授業で買ったこれ*3があったので、ひとまずその頁をめくってみました。

憲法 第四版

憲法 第四版


一応言っておくと、法学について専門的にやっているわけではないです。その辺り分野違い(どちらかと言えば教育とか歴史)の一修士課程生の理解としてお読みいただければ幸いです。
 
さて、「貸出履歴の秘密保持」に近そうな「通信の秘密」や「プライバシー権」辺りを探してみます。
第九章四節の4にある「通信の秘密」には、こうあります。

 憲法二一条二項後段が通信の秘密を保障しているのは、通信(はがき・手紙、電信・電話等すべての方法による通信)が他者に対する意思の伝達という一連の表現行為であることに基づくが、さらに、公権力による通信内容の探索の可能性を断ち切ることが政治的表現の自由の確保に連なるという考え方も、そこにひそんでいると解される。
 しかし諸外国の憲法では、表現の自由とは別個独立の条文で保障されるのが例である。(中略)それは、通信の秘密が特定人の間のコミュニケイションの内容を他に知られないようにする、という私生活の自由を保障することを主たる目的とするものだと考えられてきたからであろう。その意味で、憲法十三条に基づくプライバシーの権利および三五条の定める住居の不可侵の原則(略)とその趣旨を同じくする、と言うことができる。
(PP.207-208)

ひとまず、「貸出履歴の秘密」を同様に解せば「政治的表現の自由の確保」として、あるいは「私生活の自由」の保障として解せるのだろうと思います。
もっとも通信の秘密にも制限はあって、刑事訴訟法や関税法、監獄法なんかで例外規定があるそうです*4。本書では触れていませんが「図書館の自由に関する宣言」でも、「図書館は、利用者の読書事実を外部に漏らさない。ただし、憲法第35条にもとづく令状を確認した場合は例外とする」というような記述があります。
憲法解釈に関して言えば、これらの制限が「憲法上許される必要最小限度のもの」である必要があり、厳格な要件を設けて例外的に認めるという見解がこの本の中では指摘されています。また、別の章のプライバシー権の項目を見ても、「一般的にプライバシーと考えられるもの」や「プライバシーに該当するか判然としないもの」に関しては、「原則として『厳格な合理性』の基準(立法目的が重要なものであり、規制手段が目的と実質的な関連性を有することを要求する基準)を用いるのが妥当ではないか、と解される」(P.121)という記述*5があります。
 
ただ、最初のリンク先の文章では「また、プライバシーの概念そのものが「一人にしてもらう権利」から「自己情報コントロール権」へ、そして「自己情報コントロール権」の過大な解釈から、近年では揺り戻しが起こりつつあるということ」という記載があるのですが、この本では「自己情報コントロール権」に移ってきたという話までしか書いていませんでしたので、上で書いた学説の状況からは更に展開があるのかもしれない、ということは推測できます。
正確なところは別の資料に当たる必要があるとは思いますが、身の回りレベルの話になれば、確かに行政だったり組織の持っている情報へのアクセスが難しくなるのは一概に良い話ではないとも思います。例えば世論調査なども、母集団を決定するのに自治体の持つ選挙人名簿や住民基本台帳などを使用することがありますが、これらの利用は近年難しくなっていると言われます。また、調査には往々にして高額の費用がかかることなどの理由から、得られた調査データの2次利用として、プライバシーの問題に配慮しつつも個別の調査票のデータを公開していくという方向性も模索されています。最近流行の「ビッグデータ」の問題はそれはそれでいろいろとあるのはわかるのですが、こういった大規模なデータの利用が、我々の社会がいまどのような状況にあるのかについて知るための資料となっていくこともまた事実です。これらの情報が「見えなく」なれば、我々は現実におきていることの意味を認識することすらできません。
思うのは、自分についての情報を提供しないのは、めぐりめぐって「自分のことに対しては『いないもの』と思って下さい」ということになるのかもしれない、ということです。「絆」という言葉が流行語になるほどそれに乏しい社会、孤独死や自己責任が日常的に語られる社会において、「一人にしてもらう権利」「ほっておいてもらう権利」の行使ということの意味は、本当に輝かしいものとして映るのでしょうか。*6
 
最後にちょっとだけ違った視点から話をすると、最近副ゼミでいくつかの本を講読している中の一冊に、こういう文章がありました。

日本の教育と企業社会―一元的能力主義と現代の教育=社会構造

日本の教育と企業社会―一元的能力主義と現代の教育=社会構造

 従来、国民的な教育運動においては、「規制問題」とは、即国家主義的規制をめぐる問題であり、規制に対する自由こそが運動の課題であった。しかし、こんにち、政策側が規制緩和を盾に教育の自由と権利を犯そうとしているときに、その自由と権利を守るため、国民的立場から公共的規制のありかたを探求することは、教育運動の重要な課題になっているといえるのではあるまいか。
(P.260)

1990年の著作で、学校と労働市場に関する話ですので、具体的に図書館について語っている訳でもないし、当時の時代性もある程度織り込んで読んでいただければと思うのですが、ひとまず「規制に対する自由」という考え方ではもはや通用せず「自由と権利を守るため、国民的立場から公共的規制」の可能性を探るという話は、それなりに示唆的なのかもしれません。
図書館の自由に関する宣言」の1954年制定、74年改訂という年号を改めて見て、そんなことを思ったりしました。
 
以上、何が言いたいのかわからない文章ですが、ひとまず。

*1:私はあんまり周りの人々の専攻科目が図書館(学)とは関係のない大学なり学部なりにおりましたので「なぜ図書館?」なんて言われるのですが、その話になると少なくとも中学の総合的な学習の時間の話から始まるので、またの機会に。

*2:図書館学の初歩の初歩だとは思うのですが、浅学にしてよくわかっておりません

*3:なお、現状は第五版が最新版として出ているようです。憲法学の中でのこの本の立ち位置についてはあまり知りません。

*4:ちなみにこの版は1999年の通信傍受法に関してはあまり深く立ち入っていません

*5:ちなみに「だれが見てもプライバシーであると思われるもの」に関してはその前段部分で「人の人格的生存にかかわるので、最も厳格な審査基準」が必要だと言っています

*6:そういえば全然話が変わりますが、昔「mixi八分」って言葉がありましたけど、今「facebook八分」みたいな話ってあるんでしょうかね