「ポケモンGO」のある風景

巷のポケモンGOブームに漏れず、ダウンロードして遊んでみている。
やっていて気づいたことを、思いついたままにメモしてみる。

位置情報を利用したゲーム

 位置情報を利用したゲームについては、いくつかの理由で遊ばないことにしていた。と言っても、大した理由ではない。例えば、位置情報を利用したゲームには、ポイントラリー的な要素があることが多い。旅行などで各地を巡って遊ぶのは楽しいけれど、既に大学時代に日本各地をいろいろ旅行したのがカウントされないのが、なんだか悔しいとか、そんな理由だ。ポケモンGOの場合、各地のポータルにポイントラリー的な要素は基本的にないので、その点気楽だなと思った。
 関西学院大学鈴木謙介さんが書いているように、位置情報を利用したゲームは、現実世界の空間の意味を「上書き」する。空間の意味が変わり、人々の行動に変化が起こった時、その空間の秩序は時に動揺する。ポケモンGOをめぐる各地の「聖地化」と「排除」の動きは、こうした秩序の再構成をめぐる政治的な関係性を端的に示しているように思う。例えばFacebookの小関悠さんの投稿は、「排除」の言説に対する端的な表れとして読むことができる。同様の問題は、ポケモンGO以前にも様々にあったはずだけれど、ポケモンという訴求力の高いコンテンツによって、多少増幅された形で私たちの前に迫ってきているのだと思う。

僕たちの生きる空間には、スマホを通じて入ってくる情報が通る無数の「穴」が開いているのであり、誰もがそうした「多孔化」した現実を生きなければならない事態に直面しているのである。
「ポケモンGO」を社会学的に考えるためのヒント « SOUL for SALE

でも敢えて言いたい。ポケモンGOを解放せよ、と。高々その土地の管理権があるとかで、バーチャルな世界まで管理できると思うなよ、と。
ポケモンGOを解放せよ | 辺境社会研究室

空間の意味

 先の鈴木さんの別の論考で興味深かったのは、こうした空間の意味の上書きは、ある種その空間の歴史を可視化するという意味があることだ。

実は、『ウェブ社会のゆくえ』という本を書くにあたって下敷きにしたのは、社会学や地理学だけでなく、民俗学の考え方だ。民俗学には、ムラの境界を表すことばとして「ヤマ」「オクヤマ」といった言い方がある。「おじいさんはヤマへ芝刈りに」というときに示されているのは、山岳地帯ということではなく、村の境界の少し外にある、資源採取が許されたコモンズのことだ(だから芝刈りができる)。こうしたヤマの地域を超えると「オクヤマ」と言って、入ると帰ってこられない異界に近い扱いをされる。そのためこうしたイメージ上の境界には祠や道祖神が置かれ、想像の世界を現実化する目印になっていたのだった。


もう勘の良い人には分かったと思うけれど、ポケストップの多くはイングレスのポータルを引き継いでいる。そしてそのポータルには、都会の中では見落とされてしまうような地蔵や祠、稲荷といった民俗的なスポットが多数含まれている。つまり、「ポケモンGO」をプレイするために近所のポケストップを探検して回っている僕たちは、知らず知らずのうちに、かつての社会が持っていた想像上の地理的境界を内面化し、イメージの地図の中を移動しているのだ。そう考えると冒頭の「神社でポケモンGOが禁止」というのも、ある種の「ポケモンからのアジール」が生み出されているともとれるので、興味深いと思ったのだ。
現実をポケモンが徘徊する〜電脳コイル化するポケモンGO « SOUL for SALE

 例えば、ポケモンGOによって渋谷川が可視化されたとする投稿や、石巻や女川に設置された「記憶のポータル」の事例などが、目についた。

 もちろん誰もがこういったことに気づくわけではないし、このゲームがどれだけこうした部分に迫れるのか(これに迫ることが必ずしもこのゲームの運営目的ではない)という部分はある。しかし、Ingressよりもマスにアプローチしているが故に、こういうことを面白がる人たちの話も出てくる可能性が考えられるのではないかとも思う。

地域格差と古戦場

 先日、日本海側まで行くことがあり、移動時にポケモンGOの地図を開けて眺めていた。既に数多く指摘されているように、首都圏を離れると程なくポータルは減少する。ただし、おそらくはポータルの設置されやすい場所が鉄道沿いから主要国道沿いに変化するといったこともあるだろう。田んぼが広がっていても、道祖神が登録されていたりするので、一概に人がいないからポータルがないということではないようにも思った。逆に住宅地域でもポータルが見当たらないこともある。
 やたらとポータルが多い場所は、ひょっとすると、Ingressで激戦地として知られた場所なのかもしれない。ポータル群が、例えば城跡とかにあると、さながら古戦場のようで、そのシチュエーションが、かつてのエージェントたちの激しい拠点の奪い合いの風景を想像させる。そこに、なんとなく集まった人たちが、誰かが設置したルアーモジュールに引き寄せられてやってきて、同じポケモンを分け合っている。
 ポータルの密度は、このゲームの意味合いを変える。モンスターボールの数が制約条件になると、日常的に現れるポッポに対する意識も変わってくる。常に100個以上のボールを持つ都市の人々は、ルーティンワークのように画面をタップして、時にその面倒さで捕獲を放棄する。一方で、手持ちの30個のボールをどう利用するかを考える人々は、他のより珍しいポケモンを捕獲する可能性を考える中で、そのボールを投げるかどうか考えることになる。
 ユーザー数の多寡については、おそらくはそのままネット上の攻略情報サイトの多寡に反映されてくる。都道府県別の「巣」の一覧表に、なかなか都市部以外の状況が上がってこない(ただし、ワンテンポ遅れて増えてきた)ことを、その地域の「情報格差」の表れとしてみることができるだろうか*1

「人が集まる」ということ。

 ポケモンGOのせいで、公園等に人が集まりすぎて問題が発生していることも指摘されてはいるが、場所によってその状況は少しずつ違いそうだ。

 ところで、現在までに解析されている情報を私が理解している範囲では、ゲームの特性上、特定のポケモンを入手したり、特段ポケモンの強化に興味がなければ、敢えて遠くのスポットに行く必要は薄いと思われる*2。もちろんプレイヤーによって理解に幅はあろうけれども、総じてそういう状況である時、特定の場所に集まる人々というのは誰なのだろうか。
 様々な情報が錯綜する中で、テレビで聖地と印象付けられる場所に出向く人々もいるだろうし、ポケモンGOを動機付けとして旅行する向きもあろう。しかし、どちらかと言えば、例えばどこかに行く際に、近くのスポットに寄るとか、普段の生活範囲内からそう遠くないスポットに行く場合も多いのではないだろうか。
 特定の場所に、今までにない人々が集まるのであれば、新たに集まる人々を含む形で空間は再構成される。もちろん、そこで何らかの「問題」が起こる可能性がある。今までそこを「平和に」使っていた人からすれば、時に迷惑を被ることもあるだろう。ただ、ひょっとすると、そこで集まる「人々」は、僕らに見えていなかった地域の「人々」の姿であるかもしれない。かなり乱暴に言えば、それがポケモンGOのユーザーであっても、小学生のサッカー遊びでも、時限的に設置される保育所でも、発現の仕方がやや違うだけで、程度問題と断じることもできるかもしれない。
 ニュースやネットの投稿を見ながら、そんなことを思った。

ブームとその後

 リリースから10日あまりで、ネット上の動きを見る限りでは、第一次的なブームにはそろそろ一区切りつきそうだ。これからは、しばらく一定のお祭り感が続いていくのか、イベントなり派生商品なりである程度のマスユーザーを引きつけつつ存命を図るのか、コアユーザーに寄り添う形になるのかはわからないが、まぁそこにあまり興味はない。例えば次のようなコメントが端的に示すのは、このゲームが、一定時間内の作業量をゲーム運営側がコントロールしておらず(例えば時間に応じてたまるゲージ等がない)、マスで遊ぶことに一定の意味がある(アクティブユーザー数が多いことが遊ぶ時の動機付けになる)といったことのように思える。

「他のソーシャルゲームに比べて、ポケモンGOだと無限に遊ぶことができます。また、ルアーモジュールは自分だけではなく他の人もポケモンが出やすくなり、皆で遊ぶことができることが良いと思います」
「ポケモンGO」人気の裏では問題も―― 深夜も人で賑わう“聖地”鶴舞公園の実態をレポート - ねとらぼ

 個人的には、ゲームそのものよりも、ブームの受容のあり方というところに興味があるのだと思う。
 リリースから1週間経った29日(金)の夜に、都内をぶらぶら歩いていて気付いたのだが、ポケモンGOのために散歩していると思われる男女カップルのうち、男性のみがスマホを手に持っていて、女性は手に持っていない(例えばペットの散歩)と場合が何件か見られた。もちろん男女揃ってやっている場合も多い。ユーザー層は多様だから、一概に断定できないけれど、誰もが皆やっている(ように思わされる)時に、必ずしもそれは均等に広がっている訳ではない。その内実を観察し、推測してみるのが面白い。
 また、街で歩きスマホをしている人を観察してみると、必ずしもポケモンGOをしていないケースもよく見られる。でも、それがなんとなく「ポケモンGOをしているのでは?」というフレームで見るようになってしまう。この「世界の見え方の変化」は、僕らの「ゲームの流行」という現象に対する受容の一例なんだろう。
 今後、ブームが去って次のツイートのような(悲観的な?)風景が広がるのかどうかはわからないが、今後ブームが収束していく(?)中で、この風景がどのように記憶されていくのかということにも興味がある。ネットワークゲームはユーザーの参加がゲームの一部である以上、パッケージゲームのように、昔遊んだゲームを遊び直すということが難しい。例えば10年後に、ポケモンサン&ムーンはある程度*3遊び直せるけれど、ポケモンGOは多分難しいのではないだろうか。ポケモンGOで遊んだことは、記憶として留められはしても、追体験のできない同時代的な記憶として残っていくのではないか。

1990年代のリバイバルとしての「ポケモン

 1996年に生まれたポケモンが、20年を経てこういう形でやってくることの受け止めは、きっと年齢層や世代的な体験によっても色々で、例えば現在20代から30代前半ぐらいまでの世代は、ある種の「リバイバル」として受容されている面もある。ここ数年、1990年代のリバイバルは各所で見られる現象でもあり、もうすっかり90年代は「一昔前」になったのだなぁと思うところ。

*1:この点、例えば都内でも23区の情報が早く、多摩地域の状況はワンテンポ遅れて出てきたように思われる

*2:この点は他の位置情報ゲームが、往々にしてポイントラリー的な要素を含むのと異なる部分だろう

*3:とはいえ、最近のポケモンは配信限定でしか入手できないものも多いらしいけれど。